生きるということ

2016年11月23日
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人生の考え方
最近映画になって話題の村山聖という将棋の棋士。もうだいぶ前に病で夭折している。29歳という若さで。死期を知りつつ将棋に自分の命を壮絶に燃焼させた。あの天才羽生に対しては病を押して互角の対戦成績を残している。

その村山と長年苦労を共にした先輩棋士。その先輩は四段というプロにはなれずに三段で終わり将棋界を去るのだが、将棋界を去るべき敗退が決まったその日に、村山とその先輩は夜遅くまで痛飲した。その酒の席で村山は何度も何度も意気消沈した先輩に向かって、あんたは負け犬だ、負け犬だと大声で繰り返したと言う。ついにその先輩はカーと来て村山を殴ってしまう。

それこそ必死の思いで戦ってきて、その努力が報われずにその世界を去らねばならないと決まったその日にその当人に向かって、負け犬と大声で繰り返す、村山。これは凄まじく生ききった村山ならでは、と感じるのわたしだけだろうか?

一般常識では村山は気遣いもなく品もなく人間性に欠ける男と断じられるのであろう。わたしは会社組織で長年生きてきたが村山とは対極の人間性を山ほど見てきた。いつも分別があって他人への気遣いができて、決して感情も破綻させることもなく、そして課長部長とそれなりに昇って行く、あるいは昇ってもいかない。常にその本性は仮面に覆われ外的に露見することはない。そうするのがまともな人間だと信じ切っているかのごとく。

間違い無いのはどちらも生きているということである。もちろんわたしも。どういう生を全うするか、つまるところは自分の納得であろう。まずは自分で納得がいくのが大前提。もしも死にあたり後悔するようであれば、まさに後悔、時すでに遅しということなんだろうね。私は後悔する予定はない。今まで生きてきて何の後悔もない。
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