妬みと自慢
2016年11月15日
羨ましいと思う気持ちはこれは誰でも割と自然にあると思う。いいなーと、だから自分も自分なりに頑張ろうとか、いろいろ工夫してみようかとか、これならプラスに話は進むけど、そうではなくて、「あいつはけしからん」という方向に気持ちが進むと、これは妬みになる。別に羨ましいとも思わないって言うかもしれないが、なんかそこにあるから反感になる。
人を妬むという感情はどこから来るのだろう? わたしが知る限りでは充実して満たされている人間には妬みという感情がない。不平不満を多く持つ人間ほど人を妬む気持ちが強い。偉そうにしやがって、、、とか調子に乗りやがってとか、自分に関係ないのに反感を持つ。
興味深いのは、どんなに人を妬む傾向が強い人間でも相手が自分より下だとはっきりわかれば反感は持たない。子どもはおおむね、ねー凄いでしょとか、見てみてと自慢をするのが大好きだが、子どもの自慢を笑って聞けるのは、それは子どもと大人だからだ。知れているのである。株で100円勝ちましたって聞けば誰でもよかったねと言うだろう。
さらに興味深いのは子どもというのは他愛のない自慢をすると同時に他者の自慢に対しても鷹揚である。へー凄いなーって素直に感心する。自慢する方も聞く方も素直である。成長する従いどこかに妬みの気持ちが芽生え自慢はみっともないことだと感じるようになり、そして自分も自慢をしなくなっていく。いわゆる大人になっていくということだ。
自慢をして得なことはあまりない。人の反感を買うだけである。これは金持ちの家とかしつけが厳しい家だと、子どものころから親から教えられる。そんなこと人に言うもんじゃない、って。これは人の気持ちを考えるという意味合いもあるので頷ける。聞きたくない人間もたくさんいるだろうからわざわざ聞こえるように言わなくても良い。つまり自慢をする場所とか相手を選ぶということだが、ややこしいので、自慢なんてしなければ間違いはない。
自慢にもその質というのがあると思う。自慢したいのにそれをさりげなく演出しようとか自ら言うのではなくでも誰かに知られたいという気持ちが外にまで出ているケースは、これは滑稽である。妬まれるよりいいのかも知れないが、わたしが思うには格好いいとはいかない。
勘違いして自慢しているケースもある。自分の力でそうなったわけでもないのに自慢をするとか、あるいは良い大学を出ただけで人生の勝ち組とかと思いこんでいるとか、会社で出世したから自分は上等だとか、ただこうなってくるとこれはその人の価値観にも関わってくるので、好みの問題でもある。
自慢はコンプレックスの裏返しであると考える人も多い。別に自然にしていればいいでしょうと。これは一見まともそうに聞こえるけど、やはり大人の発想である。自分のコンプレックスを大人は隠す。少年が目を輝かせて、見てみてと自慢をする。それはテストの100点であったり、あるいは鉄棒の逆上がりであったり、出来なかったことが出来るようになる喜び、その子どもに向かって、おまえはコンプレックスを持っているな、自慢は止めろ、とは言えまい。かりにそれをコンプレックスと呼ぶとしてもそれは自然な感情で誰でも持っているものであろう。隠す隠さないは別の話。
コンプレックスから自慢に向かえばハッピーだが、コンプレックスから妬みに向かうと、それは一番見苦しいが、大人はもちろんそれを隠す。陰で悪口を言うとか相手がいないところで毒づく。あるいは言わないでまったく押さえ込むという感心すべき人もけっこういるが、今度はその妬みが自分に向かってきて、ストレスになってしまうって人も多い。(ときどき爆発したりして)なかなか扱いづらいものであるから、妬みはない方が良いということになるが、そのためには自分が納得できる人生をそれも毎日楽しく過ごすことである。その意味では他人はどうでも良いのである。
人を妬むという感情はどこから来るのだろう? わたしが知る限りでは充実して満たされている人間には妬みという感情がない。不平不満を多く持つ人間ほど人を妬む気持ちが強い。偉そうにしやがって、、、とか調子に乗りやがってとか、自分に関係ないのに反感を持つ。
興味深いのは、どんなに人を妬む傾向が強い人間でも相手が自分より下だとはっきりわかれば反感は持たない。子どもはおおむね、ねー凄いでしょとか、見てみてと自慢をするのが大好きだが、子どもの自慢を笑って聞けるのは、それは子どもと大人だからだ。知れているのである。株で100円勝ちましたって聞けば誰でもよかったねと言うだろう。
さらに興味深いのは子どもというのは他愛のない自慢をすると同時に他者の自慢に対しても鷹揚である。へー凄いなーって素直に感心する。自慢する方も聞く方も素直である。成長する従いどこかに妬みの気持ちが芽生え自慢はみっともないことだと感じるようになり、そして自分も自慢をしなくなっていく。いわゆる大人になっていくということだ。
自慢をして得なことはあまりない。人の反感を買うだけである。これは金持ちの家とかしつけが厳しい家だと、子どものころから親から教えられる。そんなこと人に言うもんじゃない、って。これは人の気持ちを考えるという意味合いもあるので頷ける。聞きたくない人間もたくさんいるだろうからわざわざ聞こえるように言わなくても良い。つまり自慢をする場所とか相手を選ぶということだが、ややこしいので、自慢なんてしなければ間違いはない。
自慢にもその質というのがあると思う。自慢したいのにそれをさりげなく演出しようとか自ら言うのではなくでも誰かに知られたいという気持ちが外にまで出ているケースは、これは滑稽である。妬まれるよりいいのかも知れないが、わたしが思うには格好いいとはいかない。
勘違いして自慢しているケースもある。自分の力でそうなったわけでもないのに自慢をするとか、あるいは良い大学を出ただけで人生の勝ち組とかと思いこんでいるとか、会社で出世したから自分は上等だとか、ただこうなってくるとこれはその人の価値観にも関わってくるので、好みの問題でもある。
自慢はコンプレックスの裏返しであると考える人も多い。別に自然にしていればいいでしょうと。これは一見まともそうに聞こえるけど、やはり大人の発想である。自分のコンプレックスを大人は隠す。少年が目を輝かせて、見てみてと自慢をする。それはテストの100点であったり、あるいは鉄棒の逆上がりであったり、出来なかったことが出来るようになる喜び、その子どもに向かって、おまえはコンプレックスを持っているな、自慢は止めろ、とは言えまい。かりにそれをコンプレックスと呼ぶとしてもそれは自然な感情で誰でも持っているものであろう。隠す隠さないは別の話。
コンプレックスから自慢に向かえばハッピーだが、コンプレックスから妬みに向かうと、それは一番見苦しいが、大人はもちろんそれを隠す。陰で悪口を言うとか相手がいないところで毒づく。あるいは言わないでまったく押さえ込むという感心すべき人もけっこういるが、今度はその妬みが自分に向かってきて、ストレスになってしまうって人も多い。(ときどき爆発したりして)なかなか扱いづらいものであるから、妬みはない方が良いということになるが、そのためには自分が納得できる人生をそれも毎日楽しく過ごすことである。その意味では他人はどうでも良いのである。
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