感性で読み聞く
2016年11月07日
実はよく知らない人の文章を読む。これは普通のことである。作家の書いたものはほとんどそうだし、雑誌とか新聞に至ってはその看板がまさに書き手で実際はどこの誰だがわからない人間が書いている(仮に署名記事でも)。よく知らない人間が言っていることを聞くこともある。日本の総理大臣がいろいろ言う。だが彼がどんな人間かほとんどの国民は実像を知らない。ヒラリーだってトランプだって実際どんな人間かわかりはしない。
そうすると人間はある種の作業をすることになる。意識無意識に関わらずにこの人間がどういう人間か、足りない部分を、やはり見えている部分から自分の主観で抽出して補うという作業である。それは言葉遣いであったり身振り仕草であったりひょっとしたら公開されている情報から想像することもある。
この感性が低いとあるいは演技者が極めて上手だと、コロリと騙されるということになる。始末が悪いのは自分で作り出した幻であるのでいったん出来上がると雪だるまのように大きくなる。彼は信頼に足る人物であると一度結論づけると、その後、信頼できる彼の言うことだからそれは信じていいだろうと。だがこれは思考が下流から上流に向かって逆転している。
自分の感性で判断したことだからそれはそれで仕方ないとも言える。あとはその感性が高いか低いかの話であるから。ただわたしは日本人の感性は極めて低いと思っているどころかむしろ自分の感性を使うことを放棄していると感じている。つまりどんな人間か自分の主観で判断をしない。自分の感性の代わりになにを使うかと言うと、それは権威である。肩書きとか学歴とか。自分が間違っているかもしれないという恐れから自分を安易に解放したいのが日本人である。自分独自の判断を自分勝手な判断と呼び、嫌うのである。人と違うことになりたくないから。
株式投資だって、実績十分のわたしの言うことなんかに耳を傾けもしない友人知人が、どこぞの誰かわかりもしない、いわゆるプロだとか評論家の言うことを、プロによれば、、、などと信じる。いやー信じてないよ、、と言いながらも心の奥にはどこか尊重する気持ちがあって、一方わたしの言うことはハルトモはすごい人間だと口では言いながらどこか尊重できない気持ちがある。それは誰もが認める肩書きがないからである。
政治と作家が大きくことなる点は、かりに作家の実像は知らなくても書いたものが全てであるから別に実像は知らなくても差し障りはない。おもしろく読んでおけばいい。極端な話仮に盗作でもね。では政治はどうだろうか? 言っていること書いていることが全てであろうか? そうではない。実際に政治をするのは実像である。言っていることは外向きで実際どういう政治をするのかどういう方向に進めようとしているのかこれは常に別にあって、それは人によって隠された部分の多い少ないの差はあるにせよ、全ての細かな問題について公的に発言できないこともあってこれは一致することはない。言うことだって簡単に変わる。
テレビでみる政治家の発言を見て聞いて、この人間の言うことは信頼できないなって感じる自分の感性がある。ネットの情報だってそうだ。ただブログを読んでいてもああこれは信用できないなと自分で感じる感性がある。ただの感性であるが、これがわたしの場合、長年の実績ではほとんど外れていない。
注意しないといけないのは一個の人間の中に信頼できる部分と信頼できない部分がかならず両方あるということである。だからいつも信頼できるわけじゃないし、いつも信頼できないわけじゃない。多い少ないはあるけどね。それも頼りは感性であるから常に虚心坦懐、刮目して見るべしである。
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