人の気持ちがわかる
2016年10月08日
ある投資のブログを読んでいたら、文中にたくさん笑と書いてある。別におかしくないのになんで笑ってるんだろうなと思って読んでいたら、後から説明が出てきて、なんとそこの笑という意味は、読者、つまりだ読んでいるお前が笑え、という意味で書いてるんだって。ギャハハ、参りましただな。そこで初めて笑ったがそこには笑って書いてなかったぞ。
脚本でもあるまいしお前に笑えなんて指示されたくないねというか指示は関係ないが、そうやって読んでいくとこの人の文章は人に指図をするトーンが強い。そういう人なんだろう。人にああしろこうしろって指図するのが好きな人というのはこれは一定数いて、指示と言われると本人は否定するが、読んでいる側からすると、どうもそういうトーンという奴。しばしば使命感とか親切心とかあるいは正義感とかがバックグランドで走っているんでわりと強固にその行動に固執する。
ほかのある投資のブログでも人に要求が強いブログがあって、聞かれもせんのにああしろこうしろとどうも説教ぽい。じゃあ読むなと言うのは早い。わたしは人の説教を聞くのは嫌いではないのである。なんとなく自慢げでかつ上から目線で楽しいじゃない。どちらかと言うと下からみられるより上から見られるほうが好きだな。どんなこと言うか聴いてやろうとスタンスだ。できたら笑わせて欲しい。
投資でも人生でも、まあなんでも世の中人の気持ちがわかる人が成功するという話はよく聞くけど、ちなみにわたしは人の気持ちがよくわかるって人から言われたことはない。ただの一度もないからきっとそうは思われていない。それでも仕事でもうまく行ったのは、これはですね、人の気持ちじゃないのですよ。大切なのは、人というものがわかると言うこと。
そもそもである。わたしに言わせれば気持ちをわかろうなんて僭越である。わかりっこないってわたしは思うね。苦労知らずの生い立ちじゃないとそういうセリフが出てこない気がする。わたしも含めてだけど児童養護施設の子供はみんな言う。誰も自分のことを自分の気持ちをわかってくれないって。誰も自分のことをわかってくれないって思うのに自分が他人のことをわかったなんて言えるわけがない。
ただその代わり人間観察眼は養われる。この人はどういう人か? 気持ちじゃなくてその人間の隠された部分に興味が行くようになる。そこはイマジネーションでもある。間違っていてもかまわないのである。間違え方というのがちゃんとあって自分がそれに振り回されたり頼ったりとならないようにするの。
この人は今はこういう気持ちでいるけど、でもこういう状態になったらきっとこういう行動をとるだろうな、、てその人が考えてもいないことまで想像がいくようになる。 人がわかるってのはそういうことだけど、これは飼い猫から見たらどら猫の考え方である。素直に人のいうことを聞けないなんてひねてんだな、ということになる。
飼い猫から見ればどら猫は気持ちがすさんで悲しい奴だとしか思えない。どら猫はそうしなきゃ生きていけないからそう生きざるをえないだけなんだけどね。野生ということだ。そうなると飼い猫じゃどら猫の気持ちは理解できないでしょ。やはり簡単に人の気持ちがわかるなんて言えないってことになるでしょ。
ただどら猫にも気を許す相手はちゃんといる。それはどら猫同士だったりあるいはどら猫がお嬢様猫に恋することもある。それでうまく行くこともある。人生いろいろ。だからおもしろい。哀れなのは飼い猫からどら猫になるってケースでこれはけっこうある。会社で飼い猫のつもりでいたら追い出されたり、、、まあこれもおもしろいと言えばおもしろいが本人はたまらんだろうね。こうなるくらいだったら最初からどら猫の方が良かったなんてね。知りもせんのに。
脚本でもあるまいしお前に笑えなんて指示されたくないねというか指示は関係ないが、そうやって読んでいくとこの人の文章は人に指図をするトーンが強い。そういう人なんだろう。人にああしろこうしろって指図するのが好きな人というのはこれは一定数いて、指示と言われると本人は否定するが、読んでいる側からすると、どうもそういうトーンという奴。しばしば使命感とか親切心とかあるいは正義感とかがバックグランドで走っているんでわりと強固にその行動に固執する。
ほかのある投資のブログでも人に要求が強いブログがあって、聞かれもせんのにああしろこうしろとどうも説教ぽい。じゃあ読むなと言うのは早い。わたしは人の説教を聞くのは嫌いではないのである。なんとなく自慢げでかつ上から目線で楽しいじゃない。どちらかと言うと下からみられるより上から見られるほうが好きだな。どんなこと言うか聴いてやろうとスタンスだ。できたら笑わせて欲しい。
投資でも人生でも、まあなんでも世の中人の気持ちがわかる人が成功するという話はよく聞くけど、ちなみにわたしは人の気持ちがよくわかるって人から言われたことはない。ただの一度もないからきっとそうは思われていない。それでも仕事でもうまく行ったのは、これはですね、人の気持ちじゃないのですよ。大切なのは、人というものがわかると言うこと。
そもそもである。わたしに言わせれば気持ちをわかろうなんて僭越である。わかりっこないってわたしは思うね。苦労知らずの生い立ちじゃないとそういうセリフが出てこない気がする。わたしも含めてだけど児童養護施設の子供はみんな言う。誰も自分のことを自分の気持ちをわかってくれないって。誰も自分のことをわかってくれないって思うのに自分が他人のことをわかったなんて言えるわけがない。
ただその代わり人間観察眼は養われる。この人はどういう人か? 気持ちじゃなくてその人間の隠された部分に興味が行くようになる。そこはイマジネーションでもある。間違っていてもかまわないのである。間違え方というのがちゃんとあって自分がそれに振り回されたり頼ったりとならないようにするの。
この人は今はこういう気持ちでいるけど、でもこういう状態になったらきっとこういう行動をとるだろうな、、てその人が考えてもいないことまで想像がいくようになる。 人がわかるってのはそういうことだけど、これは飼い猫から見たらどら猫の考え方である。素直に人のいうことを聞けないなんてひねてんだな、ということになる。
飼い猫から見ればどら猫は気持ちがすさんで悲しい奴だとしか思えない。どら猫はそうしなきゃ生きていけないからそう生きざるをえないだけなんだけどね。野生ということだ。そうなると飼い猫じゃどら猫の気持ちは理解できないでしょ。やはり簡単に人の気持ちがわかるなんて言えないってことになるでしょ。
ただどら猫にも気を許す相手はちゃんといる。それはどら猫同士だったりあるいはどら猫がお嬢様猫に恋することもある。それでうまく行くこともある。人生いろいろ。だからおもしろい。哀れなのは飼い猫からどら猫になるってケースでこれはけっこうある。会社で飼い猫のつもりでいたら追い出されたり、、、まあこれもおもしろいと言えばおもしろいが本人はたまらんだろうね。こうなるくらいだったら最初からどら猫の方が良かったなんてね。知りもせんのに。