人は何のために生きるか?

2016年09月25日
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人生の考え方






トリエンナーレと題打って、さいたま市で街角美術館が昨日から開催されている。折しも天候もよく、かみさんと自転車でグルっと回ってきた。カミさんはトレックのクロスバイクを買ったのはいいもののほとんど乗っていない。今日はママチャリでもいいかと思ったが、二人でトレックで出かけた。

この寝転がったサラリーマンはかなりデカイが、どうやら労働から解放されたらしい。ラトビアの芸術家の作である。わたしはすでに労働をしていない身分だけど、解放されたって気はしなかった。それほど我慢して仕えたってサラリーマンじゃなかったし、やっていて毎日楽しかったしね。今でもまた働いてもいいくらいの気はある。

さて、人間は何のために生きるか? これはたぶん愚問だろうという直感がある。生きていてそう感じる。だいたいだ、自分の意思で生まれてくる生き物はいないし、自分がこの世に生を受けたのは、それは父さん母さんがそれなりのことをしたからで、だとしたらその行為に哲学的な意味を求めにゃならんけど、自分の経験で言えばそんな立派なもんではない。ただ、そこにいたという事実はそれは厳然と残るだろうと思うけど。

ということで自分が生まれてきた根源的理由などと大層に考えない方がたぶんよくて、もしそれを大層に考えると自分のことだけ妙に高みに置くような心持ちになりはせんかとわたしは訝しむ。どこのどいつも皆同じであろうから。人生観に使命感とかを持ち込む人も多いが、これもこの話の流れで考えると、そんな凄いもんか?とわたしは思う。もっと言うなら世間に喧しい処世術とかもこれはかなり怪しい話と思えてくる。

例えばだ、マズローの5段階だか6段階の欲求があって、これは人間という生き物が何かを論ずるにあたりかなり妥当な説だということになっているけど、見ていくと生存はまあ良いとして、その後組織において自分の居場所を求めるようになり、さらには賞賛を浴びたくなり、とか進むわけだ。これが生きていく目標になったりあるいは達成感になったり、さらには使命感とかもその線の延長上にありそうで、ではそういうものがなかったらその人はこの世に生を受けてきた意味はなかったのか?と問うと極端であろうから、代わりにそういうことを成し遂げれば相対的にそれは価値ある人生だったと言えるかと問えば、立派な業績を残した人はみな讃えるわけで、歴史にも残されたりするわけだから、細かにいろいろ言っても総じて世間のコンセンサスとして答えはイエスだ。活躍していれば胸を張れるしそうでなきゃなんだかうなだれ気味てのが同窓会なんかでの普通の構図だ。

わたしはそこがおかしいだろうって言っているわけだが、では生まれてきた意味はないのかと言うと、わたしはそんなこと思ってない。与えられたものではないという視点でかつ非常にパーソナルな作業という意味でそれはある。なにも難しい話じゃなくて、人様がどうこう言おうが、自分で納得して決めればよろしいという話である。そこが自分で決められないというより人様から評価されることで初めて自分も納得するという思考のサイクルに入っているから、これはもう順番が違うんだね。人から褒められないと自分でなんだかわからないってことだから。
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