旧友に会うのも考え物

2016年04月17日
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サラリーマンライフ
いくら偉くなっても誰かのいいなり。あるドラマのセリフだが、言いなりは極端にしても誰かを畏れ誰かに媚びるのは案外やっている本人も満更でもないからこの社会はそれなりの秩序が維持されるという人間心理の本質はあると思う。完全に自由になってしまったらどうしていいかわからない。人間というのはその重石を退かしてしまうと馬脚を現すもの。権力者がしばしば醜態を曝すのは歴史を見るに枚挙に暇がない。ということでぶつぶつ言いながら実は完全な自由を求めていない人間が多いというのはわたしの実感だ。本当の自由というのは人の思い通りにならないのと同時に人を思い通りに動かしたいと思わないということだ。それは部下どころか、子供や妻もである。子供の将来を心配するなどと言うと聞こえは良いが、さてどうだろう?自分の狭い器量を押しつけているかもしれないと、そう自らをいぶかしむほうが精神的には健全であるとわたしは思う。

前の前の会社の先輩のところの遊びに行くとメールしたら返事が来て、一緒にわたしの同期にもあわせたいとのことだ。先輩なりの気遣いかもしれない。わたしの同期というのは遡ること30年以上前に一緒に会社に入った人間ということだが、もうまさに30年も会ってない。その同期は今はわたし会いたいという先輩の上司以上なんだそうだ。立派な肩書きがついている。まあ出世してそれはよかったねとは思うが、わたしは同じ寮に住み楽しく遊んだ先輩を懐かしんで会いたいだけで、別にその同期にわざわざ会いたいとは思わない。いや会うのはいいのだが、先輩とわざわざ同席する必要はない。こっちは暇人だからその同期が仮に会いたいというならいつでも出張ってそしてごちそうしてあげるくらいの勢いはある。

それとだが、サラリーマン社会で長年堪え忍んで出世した人間は旧友といえどたいていわたしと話すと不愉快になるというのがわたしの経験則だ。自分が長年大切にしてきたものをわたしが鼻で笑うような態度をあからさまに取る、というわけではないが、彼らはそのあたりは敏感だからわたしの本音をすぐに感じ取る。わたしも率直な方だからそれほど隠しもしない。自分の身近なサラリーマン社会でもサラリーマン的価値観を否定する人間はそれなりにいるが、その代わり収入と地位は自分の方が高いから負け惜しみに聞こえて納得がいくという構図がある。ところがハルトモ君の場合はかなり裕福で負け惜しみでもなんでもなくて、よくやるよなと言われている気分がしてそれで話していて頭に来るということになる。わたしの人間修行が足りないのかそれはどうかよくわからないが、向こうだって実は相当修行が不足だ。たいていの人間は外を磨くのに精一杯で中を磨くまでいかないのである。わたしなんかましなほうかもしれないくらいだと思う。ということで普通に話していると自慢になってしまうわたしだからあまり旧友に会わないほうがいいかもしれない。
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Comments 1

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ハルトモ  

No title

人の自慢話しを素直に聞けずまた話せないのはひねた大人になったからでしょうね。

子供はスポーツカーを見て素直におおー格好いいと思います。施設の子供も素直に私の話を聞きます。そして子供は ねーすごいでしょ 見て見て と自慢が大好き。素直なんです。

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