光り輝く未来を見よ

2016年03月31日
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児童養護施設のこと
中学生と小学生高学年のこどもが何人かで火遊びをした。お店からマッチとか失敬してきてそれで施設の敷地内の草に火をつけた。火は子供の胸まで達しいい調子で燃えて、それを喜んで見ているところを職員が発見して鎮火した。その時の職員が強く叱ったがこどもたちはへらへらしたりあるいは逆ギレしたりでしおらしさは全く見せない。まず素直に謝ったり反省するということがない。万引きをしても似たような傾向がある。悪さを繰り返す子供たちに見られる特徴で2度とやらないと口では言いながら、自分のしたことの重さを受け止めることから逃げる。そして仔細なことで逆に大人に切れて反抗する。

要は幼稚で弱いのである。こういう子にいつまでも怒っているとまたやる可能性が高い。大人が嫌いだから大人を困らせたいという気持ちと、またかまって欲しいという気持ちがないまぜになっている。かと言って何も言わなければ、これでいいんだと勘違いする。まあ粘り強く語りかけるしかない。

施設の優秀なこどもの話をここで書くことが多いが、ほんの少数である。別に優秀でなくてもきちんと自立してくれれば良いのだが、かなりの比率で、これはどうにもならんな? と思わざるをえない子供も多い。この子は将来どうなるんだろうな? やるせない気持ちになる。 実際児童養護施設を出ていわゆるまともな社会人として自立する可能性はだいたい半々であるとどこかの統計で読んだ。あとは定職をえられれずにぷらぷらしたり。

施設の子供達は自分の親を美化する傾向が強いが、わたしは自分が親として自分のこどもにどれだけのことをしてきたか話してあげるようにしている。そうれば親というのはこどものためにどこまでやってくれるものか少しは理解してそして自分の親と比べることができるかもと思うのだ。

わたしの娘は小さい時から小学生までほぼ毎週、親とどこかに遊びに行っていた。娘はたいてい車の中で目を覚ます。寝ているうちから出発するからだ。そして起きて車窓から外を見ればそこは一面の銀世界だったり、あるいは草原だったり、湖だったり、あるいはテーマパークだったり、あるいは空港であったり。さあ遊ぶぞという時にその遊び場がもう目の前にある。遊んで遊びまくって娘はまた車の中で眠りに落ちる。目がさめると家の布団の中。昨日の遊びはまるで夢のよう。月に一回かそれ以上はお泊りで遊びに行っていた。国内でも国外でももうこれ以上遊べないというくらい遊んでいた。こどもたちは、へーとそんな夢のような生活があるんだと耳をそばだて聞いてくれる。

子供達の素晴らしい点はわたしの自慢話を素直に受け入れることだ。これが大人になると妬みやっかみばかりになる。へーすごいな、と素直に聞いてそしてそこで自分の身と照らし合わせてなにか考えれば良い。自分もそれくらいする親になって欲しいというわたしのメッセージである。怒るも叱るのも施設の職員の仕事なんだろうけど、それはほどほどにして、わたしは夢を語りたい。自分の未来が光り輝くものであると確信するようになれば、考え方も気持ちの持ち様もきっとかわるのではないか? バカな遊びもしなくなり切れて暴れなくもなるのではないか? いや今は暴れても切れてもよい。ひょっとしていつかどこかで効いてくるかも。そんな淡い期待を持ちながら子供達と話すハルトモ君である。

どうやって未来が光り輝くのか? 言葉は違うがこういう意味の質問は子供からくる。親がやってくれないなら自分でやればいいのさ、ハルトモ君のようにね。それがわたしの答えである。

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