必死にやるということ

2016年02月03日
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児童養護施設のこと
20人の子供が共同生活している。それと一緒に10人くらいの職員が働いている。インフルエンザが広がったらそれはかなりパニックだ。溶連菌とかO157とかも怖い。今は受験の真っ最中であり受験生に感染でもしたら大変だ。受験生の子は一週間くらい我が家に預かってもいいと申し出ておいた。受験生くらいの子供を預かれる家は園長とわたしくらいだ思う。まあ園長の家の状況はわからんが。今20人中2人がインフルエンザである。さらに4人が発熱している。発熱しても時間がたたないと陽性にならないのでまだ結果はわからないがかなり危険な状況だ。

昨年は娘が受験生であった。その受験の最中にわたしはインフルエンザに感染した。施設の子供から感染したのであるがこういう仕事をしていたら仕方ない。もちろん予防接種も受けているが感染するときは感染する。感染すると出勤停止になる。おかげでわたしは入職以来初めての5連休をいただくことができて随分と楽ができた。昨年ならいざしらず今年は個人的には別にかかっても構わないくらいの気だ。

昨年はわたしは当然家にいたが家人は落ち着いたものだった。娘も別に受験生だからと言ってピリピリはしていない。大学受験というものの位置付けが我が家では他の家に比べてそれほど高くなかったんだと思う。そんな必死に勉強せんでも適当に入れるところに入っておけば良い。我が家はそういう家庭である。親が学歴とか仕事のおかげで今の生活を築いたと思ってないから、そういう考えというのはインフルエンザよろしく感染するんであろう。

ただ娘には必死に勉強して良い仕事も得るのもそれも人生なんだから馬鹿にはできないとは伝えてきている。なにか間違っているんじゃないか?とは思うが必死になにかすることはとても大切なことでそれはどの道にもつながる。娘は何不自由なく育っているがそれは自分の力で築いたものではない。楽してわたしと同じような考えになるのは分不相応であろう。

施設の大学受験生の子供が、落ちたらどうしよう、どうしよう、と心配して不安がつのっている。志望校に落ちたらもう死にたい、なんて大げさに言う。わたしは言った、「今はやるべきこと、勉強を必死にやるしかないだろう」と。その子は「わたしは必死だよ」と言う。ハルトモさんの「必死になにかする」というその必死ってどれくらいのこと? と聞かれた。

それでわたしの体験を話した。ハルトモが施設にいたときにホームごとの野球チームが作らて大会が開かれた。小学3年生だかのわたしはキャッチャーをやれと最上級生に言われて、当時の最上級生は中三だったが(みんな中卒で働くので)その中学生3人ほどでわたしを鍛えるという名目でかなり近い距離からわたしに思い切りボールを投げつける。それを野球をやったことのないわたしに取れと言う。彼らの目的は取らせることではなくてわたしの体に当てることだ。3人で誰が最初にわたしをノックアウトするか遊んでいたのだ。当時に中学生は手加減なんてない。思い切りわたしに投げつけてくる。それも向こうに3人並んでかわるがわるである。

何発か痛い思いはしたが、わたしは死にたくないし大怪我もしたくないし、体に向かってくるもの取るしかない。そしたらね。驚いた。あっと言う間にものすごく上手くなった。なんでも取れるようになった。バンウンドしての取るのでそんで野手でもうまくなった。わたしは小学3年生ですでに必死になにかするというのはどういうことか身をもって学んだのである。今にして思えばよい体験をしたが、その中学生3人はもう60代前半ということになるが、今はどんな生活をしているだろうかね? 知る由もない。どうでもいいことだ。

こんな話をした。かなり説得力があったようだ。まだまだ自分は必死じゃないのかな?と言っていた。「だってハルトモさんはボールを取るしかない。取れなかったらどうしようなんて考えてなかったんだよね?」

そういうことだ。賢い子だ。落ちたらどうしようなんて言っているうちは必死じゃないのである。まあわたしの娘も落ちたらどうしようなんて言わなかった。行けるところに行くしかない。でも娘は別の意味で必死じゃない。ということで必死であろうがなかろうが、さきに結果ばかりを気にする、というのはそれはあんまり良い作業じゃないということだろう。どうしようと思うなら備えておけば良いだけである。その子は滑り止めを受けているのだしそこは間違いないから、全部落ちたらそこに行くだけである。どうしようと心配はすで終わっているのだ。
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ハルトモ
Posted by ハルトモ
自由人ハルトモ。那須とさいたまを毎週往復するリゾート&リタイアライフ、そして旅、投資ネタもありのブログです。
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