謙虚と慢心
2015年12月30日
ビルゲイツ氏は成功を続けていくと人間というのは慢心するものだと断定的に述べている。たしかどこぞのブログでも玄人と自称する投資家が同じことを言っていた。成功により人間は必ず慢心すると。わたしは必ずしもそうだと思わない。ちなみにこのわたしが成功したと言うかどうかは別にしてもわたしは慢心などしていない。だから必ず慢心すると決めつけるのは誤りだ。いずれにせよビルゲイツ氏は謙虚にしなさいと言っている。
謙虚であるべしと人に勧めるにしても謙虚という言葉の意味が読み手によってずいぶん変わるから実は伝える時にこの謙虚とは何かと一説ぶっておかないと読み手には本当の言いたいことは伝わらないとわたしは思う。謙虚には目に見える謙虚と目に見えない謙虚があるがたいていは目に見える謙虚を謙虚と言う。あの人は謙虚な人だとか、つまり謙虚な振る舞いをしているということでそう見えるということ。
だが人あたりはとても腰が低く穏やかで謙虚に見えても、心の中まではわからない。人間というのは処世術として敵を作らぬようにいくらでも演技をするものである。その演技が上手で謙虚に見えても、どこかに気の緩みがあってすべきことを怠ったとしたらそれは謙虚とは呼べない。
厳密に言うなら謙虚という言葉を使うから紛らわしい。手を抜くとか怠るとか理由はなんであれそれが一番怖い。さらに自分の分をわきまえずに分以上のことをしようとしたり望んだりそれも怖い。
素人の投資家が株でいくらか儲けたいともし思うとして、わたしはそれが慢心だと思う。できもしないことをしようとしているからだ。はっきり言えば身の程知らず。事実大多数が損するのが相場だ。
立派な肩書きがつくと自分は上等な人間だと思い込む人間はとても多い。本人は別に傲慢だと思っていない。自分の社会的地位に相応しい扱いを求めているだけだと。わたしに言わせればそんな肩書き程度で相手になにか求めるのが傲慢である。偉くなろうがいくら儲けようが別に人間の中身がかわるわけじゃない。人間はそんな変るもんじゃないでしょ。
そういうことで世の中の人々が言うところの謙虚と慢心はわたしの定義とだいぶずれているようだ。世の中の多くの人は謙虚に振る舞いながら慢心しているようにわたしには見える。わたしは謙虚な振る舞いはしないが慢心はしていない。わたしは慢心を戒めねばとさえ思わない。どれだけ儲けようがどんな肩書きがつこうがそんなものどうでもよいことである。慢心する理由にさえならない。
自分の生きると全うするのみ。楽しく生きるのにやりすぎはない。幸せすぎて慢心するというのもない。いくらでも幸せに思えば良いのだ。謙虚にと自分を戒めながら生きるなんてのなんか偽善の匂いがする。心を自由に解き放つ人生がわたしはいいね。
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