死者は誰のもとへ

2015年09月04日
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日々の雑感ーリタイアライフ
娘がイギリスに行っているからというわけではないが評判の良いイギリス映画を観てみた。民生係として身寄りのない死者のお見送りをする人間の話である。とても良い映画であるからご覧になったら良いと思う。

映画の中で民生係は死者の親類や友人になんとか連絡を取ろうとする。相手の反応は期待と反し冷たいものである。だが民生係がそれで落胆するわけでなく彼は淡々とそして丁寧に気持ちを込めてお見送りをしていく。こういう経験のない人間からすると身内のくせにひどい奴らだと憤りを覚えると想像するのではあるまいか? だが実はそうではないということをわたしは実体験として知っている。

しみちゃん、わたしの伯母である。わたしは母親とは4歳の頃別れ別れになったからそのまた姉の伯母なんて知るわけもない。ところがその伯母を東日本大震災で津波に飲まれた気仙沼の町から救出することとなった。というか実母を捜索に行って無事見つけだして埼玉に連れ帰るときにおまけで伯母さんもついてきたのだ。埼玉に着いてシミちゃん病院にかつぎ込んだ時は息も絶え絶えすぐに死ぬと医者は言ったが奇跡的に持ち直した。おかげでわたしは命の恩人という栄誉に預かることになった。その後しみちゃんは老人ホームで穏やかな余生を過ごし4年後に亡くなる。享年86歳であった。

さて死んだらどうなる? わたしは気仙沼に帰った実母を始め宮城県に在住するしみちゃんの兄弟4人に連絡を取った。それから震災前につきあいのあった甥姪にもコンタクトを取ろうとした。だがその反応はまさに映画と同じであった。みな自分たちの生活に精一杯である。もちろん想像した通りだ。生きている間誰1人来なかった。

結局かみさんとわたしとふたりでしみちゃんの葬式をささやかに出した、老人ホームの人も来てくれた。戒名もつけて永代供養もした。ちゃんと位牌も作った。4年間の間にわたしもかみさんもしみちゃんと交流して友達になっていたが仲良しのしみちゃんはそのまま我々のもとで亡くなり我々が弔いをした。しみちゃんは誰のところにも行かなかったのである。

これが逆にしみちゃんの身寄りが突如現れて葬式全部仕切って、そしてハルトモさん今までありがとうございました。と深々と頭を下げられたら、わたしは満足しただろうか? しみちゃんは身寄りのところを戻りわたしには何も残らない。寂しさが去来したのではあるまいか? そんな気がわたしにはする。

しみちゃんの残したお金は数万円であった。葬儀費用にははるかに足りない。だが全部わたしが払った。しばらくすると社会保険庁から手紙が来た。払いすぎた年金を返して欲しいと。わたしは、しみちゃん、あんた世話が焼けるなと、自腹で10万円ほど社会保険庁に返してやった。友達のしみちゃんの借金だから綺麗にしてやろうとわたしは思ったのだ。

しみちゃんは我が家から20分ほどのお寺の永代供養塔で眠っている。お盆や彼岸にわたしとかみさんが墓参する。しみちゃんにはいつも言っている。しみちゃん、ぼけっと寝てんじゃないぞ、恩人のハルトモ家をちゃんと守れよ。さぼらず働けな。わかっているかどうか知らないが、しみちゃんは今でもハルトモ家のそばにいる。どこにも行くところはないのである。

しみちゃんは亡くなったが、まだ養母と言うか他人だがしげちゃんもいる。しげちゃんは死んだおやじの再婚相手である。他人だが結局わたしが引き取っている。老人ホームにいてご機嫌な余生である。わたしがお見送りをすることになろう。それと実母もいる。お世話になったとは言い難いが、弱ればわたしが面倒を見ることになるんだろう。

映画のラストシーンは印象的である。見る人のために詳細は言わないで置くが、民生係が見送った死者は最後その民生係のもとにいるという結末である。わたしが見送った死者もそれくらいの律儀さは持ってほしいもんだが、それはどうだかよくはわからない。詰まるところ話は自分の納得に集約されるのであろう。それで良いと思えるかどうかである。人間性の問題とも言えるのかもしれないが、かなりの余裕がないとなかなかこうはなれないというのもたぶん現実であろう。良いお金の使いかたができる幸せというものをわたしは噛みしめている。
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