カブトムシ
施設の子供たちも暑い中公園に遊びに行っていろんな虫を捕まえてくる。カブトムシもクワガタもこの界隈はけっこうたくさんいる。さいたまも駅から離れるとけっこうたくさん自然がある。ジジイ死ねとわたしに言葉を発するその子供たちがカブトムシを見て目を輝かせている。その姿は普通の子供と何ら変わらない。だがそう思っていると油断できない。カブトムシを飛ばそうとして無理に羽根を広げたりする子供。これが普通かどうか?一般家庭でもこういうことをする子はいるかもしれない。普通とは言いにくいが一般家庭でこれを以って問題になることはないだろう。
わたしの少年時代にも生き物に残酷なことをする友達というのはけっこういた。わりと覚えている。だからと言ってそれでおかしな大人になるのではなく、皆それぞれちゃんと定職について家庭を持っているので、あながち性格的にどうこうというのではないような気がする。わたしはおかしな大人になるのは性格よりも知能のほうが影響が大きいのではないかと思っている。
おかしな大人というのは例えば子どもを虐待するとか、放棄するとかだとすると、知能があれば損得まともに判断できるから子どもを虐待などすれば自分もただではすまないとわかるし、子どもをちゃんと育てることで受ける恩恵がそれなりに理解できるし、子育ての喜びも感じることができる。それも配偶者と共有して。自分の子どもをいじめてよいことなどひとつないのにそれがわからないのであるから、やはりおつむが弱いとわたしには思える。
さて施設の子どもたちは、こういう虫取りのような些細な事象でも全てその子の特性として記録に残され生い立ちでできた心の傷との関連性を疑われる。そして治療やセラピーがもたれる。子どもたちの心のケアというわけだ。子どもはそのケアで自分がしたことの振り返りを求められる。さらりと流さないで突きつける。それを仕事としている人間がいるのである。
それが子どものためになっているどうかはわたしにははなはだ疑問である。だが何もしないわけには行かないと言うことで、なんかするわけだが、わたしも同じ扱いを受けた経験から言うとロクなものではなかった。まあケースバイケースだろう。だがいくら子どもでも性格は簡単に改造できるものではない。それも親でもない他人がいる施設でなんてリアルとは言い難い。それよりは性格はその性格なりに、どう現実に合わせてたくましく生き抜くか?そこをフォーカスポイントとしたらよいのではと思うが、この業界はそうはなってなくて、自分を見つめ直すのが最優先となっている。やはり業界なりに専門知識というのがあって、ちゃんと学校でなんか教わって論文も読んでいる人間がいてわかったような気でいるので、わたしは論陣を張る気はさらさらない。ただ自分の体験を通してもそう思うということである。
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