これでも円くなったと言われる

2015年06月09日
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日々の雑感ーリタイアライフ



わたしのiPhoneのネットスピードである。これ以上出せる方はコメントいただければ、わたしはもっと頑張ってみたい。300-400はいくんじゃないかな?と思っている。

孔子は人間の年齢ごとの成長のめどを述べているが、その中身というよりやはり人間というのは長く生きることでその人なりに成長するものであろうという点において近頃大い頷ける。これは個体差が大きいから、年を食った人間が人間性において上という見方ではなくて、まあ傾向としてはそうだ、ということで、これは世間を見てもやはり年配の方々の方が若者より平均として人間としての円みを感じる、と思うのはわたしばかりではないはずだ。

わたしのようにはなつまみの性悪人間から出発していると多少はまともな人間に方向としては向かっているというのは我ながらよくわかる。施設の子供たちの中にいる難しい子供を見ていて自分も昔は似たようなものだったと思いだす。心の傷を抱え込んでいる子供たちを扱うのはまこと難しい。わたしはその難しいひねくれた子供だったのである。

中学の小沢先生から個室に呼び出されて言われたことはまだ覚えている。小沢先生は美術の教師でかつ神主もやっていて、世間的にはかなりの人格者だ。実際そうだったと今も思う。先生が言う「ハルトモ、お前がわからない。一体何が不満なのだ?」わたしがあらゆることに反発することが理解できなかったのであろう。わたしとしては普通に振る舞っていただけだから返答に窮したのを覚えている。

まず大人の言うことは総じて信用ならないから、自分で本を読んで自分でよく考える、そういう習慣を身つけた。本を読めばいろんな大人がいることくらいはわかる。良い人も世の中にはたくさんいるのだが、同じくらい信用ならん人間もいるわけで、自分にそれを見分ける力がない以上、自分で考える。そう決めたわけだ。この年になって結果としてこれはうまく行った。ただ相当考える力がないと無理だ。わたしのような人間は珍しくて、ほとんどの人間はわたしのようにやろうとすれば、ただのはみだしもので終わってしまうだろう。多少まともに生きる道は人との関わり合いの中で誰かを頼り信じようとするようになることだが、わたしはその道は取らなかった。なんとなく子供のころから我ながらハルトモは頼りになる人間だという確信が心の奥底にあった。自分を信じたほうが間違いない、人間はは間違えることはあるかもしれないが、自分で自分を裏切ることはないから、という気持ちもあったが、それ以上に、これだけ考えているんだから自分は滅多に間違えないだろうとも思っていた。確かビジネスをやっても投資をやっても、滅多なことでは間違えない。どうしてかはよく説明できない。

さて仮にいまでもハルトモ君が人間的に成長しているとして、普通の人間になるにはまだまだ時間がかかると思うが、その一方で漠然と感じるのは、わたしの持っている人並み外れた何かは次第に消えて行くと言うか、収まっていくというか、いわゆる円くなっていくような気がする。それは何かを得たら何かを失うという話ではなくて、必要なくなれば自然となくなっていくというものだという気がしている。もともと後天的に得たものである。使う必要がなければ使わなくて良いものという気もする。もっともそれがなにか自分ではうまく表現できないが、それを以て自分を余人とを異なりたらしめているものということだ。

そのおかげもあるので勝負ごとに滅法強かったという気もする。滅法ではなく驚異的に強いのであるがこの驚異的という部分が今後消えて普通に滅法強いくらいになるとしたら、危ない危ない。株式投資なんかするもんじゃない、という気もする。滅法強い人間なんて掃いて捨てるほどいるのである。救いはもう十分儲け終わっているということで、これはずいぶんついていた。世間でわたしくらい成功する投資家はそれなりにいると思うがわりと若くして成功してそれでまったくこけないというのは、たぶん相当珍しいはずだ。これも何か自分が持っているものが関係しているのか、はたまた運がいいだけか、まあなんでもいいということだ。


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