自分ができること
2015年04月10日
特定の人間に何かするくらいなら、何もしないほうが良い、というコメントをいただいた。つまりある意味で平等を重んじる。限られた誰かを救うより誰も救わない方が平等だ。
知らない人だから書き捨てだろうけど、逆に礼儀知らずが好都合である。この理屈は前から論じてみたかったことだから。
知らない人だから書き捨てだろうけど、逆に礼儀知らずが好都合である。この理屈は前から論じてみたかったことだから。
もしもこのコメントが正であるなら、何か行動する人間より何もしない人間の方がましである、ということになるが、私にはそうは思えなくて、何も行動せずに傍観する者を正当化する論法としてよく使われるな、と前から思っていた。
わたしは自分がすることに対して十分に金があるから経済的理由でどの子供に卒業プレゼントを贈る贈らないを悩むことは無い。関わった子供達に卒業記念どころか、卒業前にできるだけのことはしてあげる。子供ごとにニーズは違うがそれはわたしが判断する。今のところどれだけ使ってもしょせん小銭である。
ではこれが特定でないかというとやはり特定なのである。全国の児童養護施設の子供全部にできるわけもない。仮に児童養護施設の子供全部にやっても、困っている子供はいくらでもいる。世界に目を転じれば悲惨な子供たちはいくらでもいる。どこまで行っても行動を何か起こした瞬間に救える人間は限られている。行動を起こすということそのものが対象は特定なのである。特定であるということより平等が良いを理由に行動を起こさない人間は永久に行動を起こさない、とわたしは思う。そもそも世の中というのは平等なものではない。どこまで行っても不平等。
児童養護施設に来てつくづくわかったのは、私一人全力でも限られた数の子供としか向き合えないということだ。金なんかたいした話でない。わたしのパワーと時間をすべて注いでそれで、何か影響を与えられる子供は本当に少ない。子供一人一人、わたしと同じ重みを持った一個の個性なのである。
ただただできることを積み重ねていくしかないとわたしは思っている。そしてそれはふいに明日終わるかもしれない。そうなればそれまでのこと。ある意味私的な作業でもあるのだ。わたしは自分でやりたくてやっている、それだけなのである。
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