嫌なことはやらない

2015年03月27日
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人生の考え方
なぜこんなタイトルかと言うと、好きなことをやるのはとても良いことだと思いますが、何が一体自分は好きか?というわりと確定しづらい問題があってそれで多角的な視点があったほうが良いと私など思うのです。

わかりやすい言い方だと、好きだと思ってもいなかったがやってみると意外とおもしろかったな、という奴です。いろいろ試して行くと自分で何が好きかわかってきたりする。またこうこともある。以前は好きだとは思わなかったが、今やってみると面白さがわかるとか。もちろん逆もあるでしょうね。昔あれだけ好きだと思っていたことが今はさほど思わないとか。

だから取捨選択しながら、いろいろ試したり検討するというのはこれはとても良いことだと思います。わたしは呼吸法の道場に毎週通っていてもう15年になりましたが、別におもしろいとも好きとも思わずに、でも5年くらいでかなり好きだと思えるようになった。今はやっていて楽しい。なんで面白くなるまで5年も続けたか、まあ自分でよくわからなかっただけで、結局好きだったんでしょうかね? でも一方やってみて合わないと思えばすぐに止めて、それでいいと思います。

結局嫌なことはやらないという大前提がわたしにはあります。好きなことはやってみないとわからないけど、嫌なことは嫌って自分でもう思っているんだから、それは嫌なんです。嫌でもやっていて好きになるってこともなくはないでしょうけど、でも本当に嫌なことはたいてい自分でわかるだろうと思います。仕事でも本当に嫌なことばかり嫌な思いをしながらやっていると体を壊す人が多い。体を壊すでなくてもやはりどこかで無理があるから家庭とか人生とかあるいは精神とか、とにかくなんか壊したりする。

わたしは尊敬もできん人間におべっかをしたりお世辞を言ったり、あと肩書きとか権力とかに媚びることが嫌いです。だからやらない。権力を振り回してそれで上にはペコペコする人間はたいてい嫌いです。大抵と言ったのは例外もあるからで、前の会社のいわちゃんなんてそうだったけど、あの人は実は私より上の人間をバカにしていた。全部で演技なんです。それはそれで見事なもんでした。だから決めつけはしません。

 話しは変わりますが、聞き出す力というのが、仕事ではとても重要でたぶんわたしはこの点で抜群だった。会社でわたしは部下とか同僚から報告を受けて、じゃあハルトモが行ってみようということになって、それでわたしが話すと全然違う話になるってのが凄く多かった。おかしいなあ?って部下はクビをかしげるのだけど、わたしがそれだけ上手に本音を引き出したり、また相手の言葉のディテイルから大切なことをちゃんと抽出するからです。

本当に聞く力がある人間は発信力も強いものなのです。発信力が強いとそのパワーで相手の本音が出てくる。聞き上手とかよく言いますが、相槌を打ちながら合わせて聞いているだけでは聞き出しているとは言えず、相手はいいように喋るだけです。ただ相手は機嫌が良くなるのでそれで気に入られるということはあってそれで得すればそれで聞き上手と言えなくもないけど、ここでわたしが言う聞き上手とはちと違います。

聞き上手はまた自分の先入観とか既成概念とかそういうものも、横に置いて人の話を聞ける。それから発想が斬新でまた視野がひろい。相手の器のほうがあまりに大きいと理解に収まらない。これはほとんど現代国語の能力と言っていいものです。わたしが今働く児童養護施設では本当は子供の話を聞くのが仕事なんだけど、わたしから見て上手に子供の話を聞ける人はほんと少ないですね。

施設で最近こんなことがありました。どうやらA君とB君二人で盗みを働いたということになっている。B君がそう白状したそうだ。園長にも報告したそうで、園長の指示でこれから一緒に謝りに行くと言う。でもA君の話は誰も聞いていない。それでわたしがA君に直接確認をすると、どうも違うことを言う。自分は無実だと。B君にもわたしが直接聞いてみた。そうするとB君一人でやったと言う。そこにB君の担当者がやってきて、それを聞いて驚いている。さっきAと一緒にやったと言ったじゃない? 言ってません、とB君。

どうやらその職員の聞き間違えのよう。聞き間違えた背景には、同時に2人を見たので、きっと二人でやったんだいう思い込みを持ったのと、以前からいろいろ問題のあるA君に対する先入観があるとわたしは思います。そしてそのまま園長に報告する。園長は園長でもう一方のA君の話も聞きもせずに報告を鵜呑みにする。だがこれは驚くほどのことではないです。人間というのはたいていこの程度なもんです。ちゃんと聞ける人間などバリバリのビジネス社会でさえあまりいないのです。

だからちゃんと聞ける、聞けないというのは実はバイタルではなくて、ちゃんと聞けていないということを自分でわかっていることが大切ということになります。そして自ら修正することです。何が確認できていて何が確認できていないか切り分けて、事実に迫っていくという作業をする。この能力も現代国語の能力ですけど、実社会で揉まれることによっても得られます。いい加減なことを言えば通用しないわけです。それで反撃されたり失敗したり痛い思いをして賢くなっていく。ところが児童養護施設では子供相手で少々理不尽な理屈を平気で押し通せます。だからその能力が磨かれていかない。幼稚な理屈が通用してしまうのです。

 この流れでは、疑われたA君に対して勘違いだったすまなかったと謝罪するのが筋でしょう。でもA君によれば誰も謝らなかったそうです。これが大人同士の話だったらどうなりますかね? 本人の話も聞かないで一方的に犯人と疑われて、ふざけるな、、て怒るのが当たり前、平身低頭謝るしかない。他の話なんてしようがない。それが大人の世界というか世間の常識。

でもここではそういう話にはならない。細かなことを言えばA君にも落ち度がなくはない。B君が盗んだと報告(告げ口)しなかったとか、盗むのを止めることができたんじゃないかとか、謝るどころかそれをさんざん説教した人間もいたそう。これではきちんとこどもを教育できるわけがありません。ちなみにこの件で A君は怒っている。当然関係した職員に不信感を持つ。今後何かの拍子に反抗的な態度をとるかもしれませんが、実は職員は自分のしたことに原因があるなどたぶんわからないでしょうね。知らないうちに子供の不信感を自ら醸成しているのです。

わたしは、これも人生勉強だと言う話をA君にはしました。世間ではよくあること。その背景には自分の今までしてきたことがあり、他人が自分をどう見ているかよくわかっただろうと。だから怒るのではなくこれを勉強材料とせよ。間違いは間違いだが自分が招いたとも言えると。これがわたしの彼に対するアドバイスです。

児童養護施設では、本当は子供云々以前に社会人として通用する職員の育成を考えて行く必要もありゃしないかと、わたしは思いますけど、この現状ではほとんど無理でしょう。そんなことしようなんてわたしも思わないし、もちろんここの誰もわたしにそんなこと望まない。それで毎日子供と一緒に適当に暮らしているんですけど、それが好きかと言うとクビを傾げる。宿直ばかりで体もきつい。同僚や上からもよく思われない。悪口ばかり言われている。告げ口もされる。

では嫌なことをやっているかと言うと、それははっきり違うと言える。もうここに来て2年半だけど、少なくとも来たばかりの頃に比べると、この仕事は好きになっているって感じはするわけで、つまり嫌いなことはやらないって意味では十分許容範囲のことをわたしはしていると言えることになるのかなと、そう思います。毎日子供たちに会うのが楽しみですよ。でもそんなまじめに働きたいと思っていないです。やれって言われていることの多くが子供のためになっていると思いにくいことも多いです。もっとも嫌なことはやらないので、わかりやすいんですが。



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