卒業式
2015年03月14日
今日は娘の高校の卒業式である。児童養護施設では子供の卒業式というと最優先で担当職員は出席する。だがいくら担当が出たところで子供の気持ちは晴れやかとか言い難いだろう。こういう季節季節のイベントは己の境遇を再認識させられる機会でもある。卒業式、入学式、目の前に幸せな親子の姿が否応なく展開される。自分にはいない。それがけっこう胸に染みるのである。まあ誰も行かないよりは良い、ということだ。
わたしは勤務で宿直である。娘の卒業式に出る気はあったのだが、勤務の関係で休憩がうまく取れなかった。ホームを開けて帰るわけにも行かない。ということで出席は叶わないが、まあかみさんが行くので良い。お父さんが行かなくても娘はなんら気にしないと思う。それはお父さんはどうでも良いという意味ではなく、そばにいなくてもどこにいても、絶対的に守られているという強固な確信が幼少の頃から築かれているからである、それはわたしはわかる。施設の子供とは180度違うのである。
卒業式というのは、親のためでもあるという説もある。親にとって、ここまで苦労して育て上げたという満足感に浸る絶好機である。だが我が家の場合は苦労して育て上げたという実感はない。子供に対してこれだけやってやった、という恩着せがましい気持ちもゼロである。
わたしの娘は親が深刻な顔をして何か相談をしたり、または言い合いをしたり、といった場面を見たこともない。夫婦喧嘩は我が家はない。どっちかが譲っているというわけでもなくとにかくわたしとかみさんは喧嘩はしないのである。夫婦喧嘩の理由には必ずお金か子供が絡んできると聞いたことがあるが、お金も子育てもまったく揉める余地はない。
心配事なしにただただすくすくと育った。だから卒業と言っても、ああそうかい、という気持ちである。もちろんどうでも良いという意味でもない。そのああそーかいでわたしは幸せなのである。
わたしは今夜は施設で夕食をとる。娘は友達とどこかに食事に行ってしまうだろう。
せめてちと早めに上がらせてもらって、と言っても夜9時だが、それで家でかみさんと晩酌でもしよう。ちとましなワインでも開けるか。マロもいるしね。ただマロはわたしが晩酌をしていると目の前まで来てつまみを狙ってくるのでおちおち飲んでられないが、それでもいまやマロがいないよりはいたほうが良い。おちおちしていれなれないというのも悪い気分ではないものである。
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