努力という言葉

2014年11月23日
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日々の雑感ーリタイアライフ

子供の頃箸の持ち方をまともに教えてくれる人がいなくてそれで変な持ち方となった。一見自然に見えるがおかしかったのだ。大人になれば自分で直せば良いのかもしれないが、これは簡単に直るものではないし、あまり不自由を感じなかったので、長年そのままでやってきた。仕事では洋食が多かったのであまり恥をかかないですんだのだろうけど、気づいた人もいるのかもしれない。

55歳なって児童養護施設で働き出して、それで子供たちの箸の持ち方を見て、ちゃんと持てていない子が相当いる。やはり教えてくれる大人に恵まれてこなかったのだろう。これは私のようにしてはいけない、そう思い、教えるためにはまず自分と決心して直すことにした。

直すのは根気がいる。でも決めた以上はやりきるのはハルトモ君の持ち味だ。高校生で上手に持つ子がいたのでその子に教えを請い、ネットでも調べてそしてとにかく練習した。練習用の箸を用意して時間がある時は、練習だ。滑らかに動かす、小さなものを摘む。長年の動作で筋肉が抵抗する。無駄な力が入り上手く持てない。食事中も食べ辛くて大変だ。子どもたちは私のそんな姿を見て笑っているが、笑われてもくじけないのがまたハルトモ君である。

早いもので、箸の持ち方を直して一年経つ、だいぶなれてもう違和感もなく力も入らない。もう以前の持ち方は忘れてしまったほどだ。まあまともに持てている。むしろ基礎からやり直したので自然な方かもしれない。

ということで一念発起して一年、今は子供達に箸の持ち方を教えている。やはり境遇から少しおかしい持ち方の子は多いのである。一緒にハルトモさんの経験談も話てね。その時は箸の持ち方だけじゃなくていろんな話をする。悪いと気づいた時に、直そうと思った時に、それを直すのに遅すぎるということはない。そしてどんなに笑われてもいい。練習を続ける人間に敵う奴はいないのだ。いつか必ず追いつき追い越す。それを伝えている。


子供の頃、努力という言葉は嫌いだった。今でもあまり好きではない。大人や先生からから言われたことをコツコツやるなんて大嫌いだった。いつも自分なりになにか上手くできないかと考えていた。だがいまの私は努力の人と言われることもある。努力というと、従順で大人しくて真面目なイメージがついてくる、それからなんか苦労して我慢している感じ、それが嫌だった。今でも努力という言葉はあまり使わない。何いろいろ工夫して諦めずに楽しく続けていけばいいのだ。嫌な思いまでして好きでもないことをやることはない。

努力という言葉に罪はない。多分私にとっては努力というのはこういうことなのだ。確かに力を入れて務めている。それだけだ。
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